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こんばんは。
忘れられた頃、忘れられた場所に。 ◇ 人に伝えたくて生まれた「言葉」は、人に届いて初めて生を得る。 本も同じで、読者が読んで初めて生を得る。 音楽だって同じだし、絵画だってそうだ。 人に届かないという前提で、表現意欲は生まれるんだろうか。 強固な情熱が存在すれば、それも起こり得るのかも知れない。 でも、それがどれだけ長持ちするんだろうか。 どうなんだろう。 分からない。 毎日鏡とだけしか会話が出来ないのであれば、鏡を見る事から離れ、 同じく会話から離れるまでそんなに時間が掛からないのではないだろうか。 もし、コミュニケーションの前提を「双方向性」だとすれば、 たとえ「誰か」に伝えたいという思いがどれだけ強くあっても、 「誰か」を明確に設定せずに放たれた槍投げの様な言葉は、 結果としてコミュニケーションからは逸脱している事になる。 心が通う。 言葉が通う。 発し手と受け手の関係。 そして、その立場の交換。その連続。 どちらにも通じる「何か」が存在し無ければ、 「この空間」に広がりはつくり出せない。 そして、それは「この空間」に限られた事ではない。 「共有」は強いることが出来ない。 だからこそ、「共有」出来た時の喜びは何ものにも代え難いのだろう。 で、僕にはその喜び以上の喜びを思いつく事が出来ない。
by piezou4
| 2015-06-22 18:55
| 雑記
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